【短編小説】ソノヒト 〜第三章 「ブラックコーヒー」〜

小説

出張の緊急性

いわき工場へは
普段の業務ではまず行くことはない。

もし、いわきに行く理由があるとすれば
それは接待でのゴルフへ行くくらいだ。

それでも年に一回か二回くらいだろう。

プレー代は安いが
殆どのお客様が
東京に集中している以上、

高速道路やガソリンなどの交通費、
ましてや行く手間を考えれば

わざわざ福島に行くよりも
埼玉や山梨などの近場に行く方が

誰が考えても、明らかに現実的だ。

そんなまともな仕事で滅多に行くことがない自社工場に
今、自分がいることが

この出張の緊急性を感じさせるとともに
会社の脆弱性を浮き彫りにする形となった。

女性社員

ゴルフは「その人」も
やったことがあると聞いていた。

いつか一緒に回ってみたいと本気で思っていたのは
僕だけだったのかも知れない。

そんなことを考えながら
ケガをして出荷業務に携われない女性社員、
その人と僕は今話をしている。

どうやら、ケガと言っても
足首をくじいたくらいのことらしい。

人を見た目で判断してはいけないが
ただ、以前にお会いしたときから
年齢は50歳を越えていると僕は思っていた。

ちょうど一年前の会社の忘年会で
その女性社員の人とは初めて会ったが
その時はまだパートだった。

今回1年ぶりに会ったその人は
いつの間にか正社員になっていた。

パートから正社員になったことで
うちの会社ではなんのメリットがあるのか分からないが
その人の意志の表れだと僕は感じた。

そんな読み取れるはずもない
他人の意志など図々しくも考えながら、

例の雑なLINEで派遣要請をしてきた工場長、
その人がいる事務所へと挨拶に向かった。

大丈夫じゃない

工場長であるその人とは
毎日、電話で話をする。

在庫の状況や出荷の依頼など
一日に何回電話をするか分からない。

ぶっきらぼうなLINEの文章よりも
電話での福島なまりの方が格段に温かく、
妙に心地良い。

今までは在庫がなくなりそうになった時でも

「だいじょうぶだぁ。」

なんて言って
コロナで亡くなったあの有名なコメディアンを
僕に思い出させてくれたが、

その言葉を電話で聞けなかった以上、
今回は流石に大丈夫ではないらしい。

ブラックコーヒー

早速、接着剤の梱包作業に移ろうと
作業着に着替えたが、

そんな状況なのにも関わらず

「コーヒーでも飲むか?」

とか言い出して
これが田舎の時間の流れかと
普段飲まないブラックコーヒーを飲みながら

LINEや電話よりも実際に会って
人と面と向かって話すことの尊さを

一杯のコーヒーが教えてくれたように感じた。

この自分の驚きを表現するとしたら

「だっふんだぁ!」とか
「アイーン!!」

では収まらないかも知れない。

梱包作業

そんなどうでもいいことを考えながら
僕という38歳の変なおじさんは

接着剤の梱包作業に移った。

接着剤は、主剤と骨材と硬化剤からなる。

それを1セットとして
1箱に2セット入れていくのだが、

すべて合わせると1箱の重さは
12kgにもなるのだ。

この箱をもってパレットに並べていく作業は
どう考えても女性にはかなり辛いものと感じた。

これを女性社員、
その人は一人でやっていたのである。

ましてや、足をくじいてしまっては
出荷作業に携われないのは当然だ。

工場の中を見渡してみると
今日出荷する予定のものすら梱包が追いついてない状況だった。

営業としてお客様と実際にやりとりする僕としては
その状況は恐怖でしかなかった。

「すみません、在庫がありません。」

とは到底言えない。

作業を始める前の寒い倉庫の中で、
出るはずもない汗をかいた僕は

ただただ何も積まれていないパレットを見つめていた。

辞めた理由

僕は相当急いだ。

その梱包スピードは
おそらく、社内で勝てるものはいないと
自負できるくらいの速さだった。

単純作業が自分には向いている。
それは昔から分かっていた。

むしろ、そもそも営業には向いていない。
営業しかやることがないから
やっているだけだ。

僕はもともと違う仕事をしていた。
いわゆる公務員だ。

市役所のような誰もが想像する
一般的な公務員ではなかったが、

とは言え、なんだかんだで
いつの時代も安定している公務員を辞めたのだ。

人には辞めた理由を

「教員を目指して」とか
「30歳を機に考えることがあって」とか

適当なことでごまかしているが、
本当の理由は妻と「その人」しか知らない。

親や兄弟ですら知らない理由を
「その人」は知っている。

それでけ、僕にとって大切な存在であるということを
「その人」には分かってほしかった。

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